骨董集


山東京伝の考証随筆『骨董集』の「勧進比丘尼絵解」を現代語訳してご紹介。『骨董集』は、江戸後期の戯作者・浮世絵師の山東京伝(さんとうきょうでん、1761年〜1816年)の考証随筆。文化11年(1814年)刊行。

下に出した古画はその風体をもって時代を考えると、寛永の頃に描いたもので、勧進比丘尼が絵解きをする様子であろう。

『東海道名所記』(浅井了意作、万治中印本)巻2に「いつの頃か比丘尼が伊勢熊野に詣でて行を務めたが、その弟子がみな伊勢熊野に参る。この故に熊野比丘尼と名付ける。その中に声よく歌を歌った尼がいて、歌って勧進した。その弟子がまた歌を歌った。また熊野の絵と名付けて地獄極楽すべての六道のあり様を絵に描いて絵解きをいたし、奥深くおわします女房たちは寺に詣で談義なども聞くことがないので、後世を知らない人のために比丘尼は許されて仏法をも勧めたのだ。いつの間にか唱え失って、熊野伊勢には参るけれども、行をもせず、(中略)絵解きをも知らず、歌を肝要とする。云々」とあるので、昔の勧進比丘尼は地獄極楽の絵巻を開き、人に差し教え絵解きをして、仏法を勧めたのだ。

下の古画の様子を見ると、寛永の頃に至ってはそれを略し、かの絵巻は手に持てるほどで比丘尼2人が向かい座って絵解きの言葉に節を付けて、拍子を取って歌ったのではと思われる。

『日次紀事』(延宝・貞享の間の作)の2月の条に「日本の風習では彼岸にもっぱら仏事をなす。一般の人々は熊野比丘尼を請うて地獄極楽図を説かせる。これを絵を解くという。云々」とあるので、延宝・貞享の頃までもその名残はあったのであろう。

『艶道通鑑』に「歌比丘尼は昔は脇に挟んだ文匣(ぶんこう:書類や小物を入れるのに用いる手箱)に巻物を入れて、地獄の絵解きをし、血の池のけがれを忌ませ、不産女の哀れを泣かせる業をし云々」とある。いま説経祭文というものに不産女地獄、血の池地獄などといってあるのも、絵解きの名残であろう。

血の池地獄の物語を読むと、『血盆経』(偽経であることは言うまでもない)に目連(もくれん:モッガラーナ、釈迦仏の十大弟子の1人)が羽州追陽県に到り、血盆池地獄の中で女人が数多種々の罪を受けるのを見て悲哀して獄主と問答したことがあるのに基づいて、とても幼稚に作ったものながら、言葉はおのずから古めいたところがある。 また、いま地獄絵を杖の頭にかけて、鈴を鳴らし、地蔵和讃を唱えて勧進するのもこの名残であろう。

『勧進聖判職人歌合』(天文6年以前のものという)に、絵解という者がある。その図を見ると、俗体で烏帽子、小素襖(こすおう)を着て、琵琶を抱き、杖の先に雉の尾を付けたのを持ち、己の前に絵巻のような物を置いている。絵解の花の歌に「見所や絵よりもまさる花の紐とかうとかじは我ままにして」、同じく述懐の歌に「絵をかたり琵琶ひきてふる我世こそうきめ見えたるめくらなりけれ」、判の詞を考えると、古い軍物語の様子などを絵巻にして杖をもって差し教えつつ、絵解きに節を付けて平家などを語るように琵琶に合わせて語ったのではと思われる。杖頭に雉の尾を付けたのは、しばしば指し示すのに絵巻を破損させないためか。比丘尼の絵解きもこれらのうつった物であろうか。

画中詞
古画勧進比丘尼絵解図
○考えるに今から180年ほど前の寛永年中に描いた絵であろう。頭を白い布で巻いているのは古い姿である。『七十一番職人尽』の絵を合わせ見よ。
○手に持っているのは地獄の絵巻であろう。
○この小比丘尼が手に持っているのは、びんざさらである。
○牛王箱であろう。

山東京伝『骨董集』

山東京伝『骨董集』挿絵 古画勧進比丘尼絵解図

山東京伝『骨董集』挿絵 古画勧進比丘尼絵解図

山東京伝の『骨董集』の挿絵の熊野比丘尼の図を印刷してポストカードにしました。